2013年10月13日日曜日

おらほの学園祭「養殖漁業部」(南三陸町)

去年から被災地でも頻繁に行われているオンパクの手法を使い、地域で特技を持った人がその特技を使って講座や見学会やその他諸々イベントを開催する。南三陸町でも「おらほの学園祭」の真っ最中。
10月6日(日)、その中の「養殖漁業部」に参加させてもらった。
講師は第七黄金丸の船長、阿部徳治さんだ。



早速、小船に乗り込む。子どもの頃よく川を渡っているとき落ちた。トラウマがよみがえる。でも、びちっと船をつけてもらってクリア。
ウニがそこら辺にいるが、今は採れない。


「囲みがね」と呼ばれる道具で海の底を見た。結構よく見える。これで見ながらうになどをとるらしい。




戸倉清水浜の内湾をまわったらいざ外湾へ。




船長室も見せてもらえるとのことなので、見に行った。
狭い船長室にところ狭しと機材が設置してある。レーダー探知機もあった、これだけで100万円かかるそうだ。
震災時、この船で沖にいた阿部さんは船を助ける為にそのまま沖に避難し、翌日陸に帰って来て呆然としたそうだ。









……交通手段としてのフェリーだとかは乗ったことがあるが、考えてみたら、漁船には乗ったことがなかった。
外湾の揺れにびっくり。そうそれは念頭にいれてなかった。
ちゃんと立てない。カメラがうまく持てない。水しぶきでノートがぬれる。カメラも汚れる。そして、気持ち悪くなる。
こんなに景色はいいのに。。。
うみねこが気持ち良さそうに波にのっていた。ありえない。






これは椿島。津波は土をえぐり、この島を飲み込もうとしたけど、タブノキがしっかり守った。そして、タブノキも枯れたり流されたりしなかった。





外から見るとつながっている海だけど、養殖場は、畑や田んぼのように区画整理されている。これはその印。



丸い浮き輪はワカメ、楕円の浮き輪はホタテがぶらさがっている。


うみねこはいつもいい気なもんだ。


まずはホヤから。
まだ小さくて食べれないけれど、ホヤには+と−がある。料理する時にはまず+をハサミで切って汁をだして−を切る。順番を間違えるとブファッと中身が出るそうだ。
ホヤはくせがあると苦手な人も多いそうだが、新鮮なものはホヤ好きには物足りないくらい臭みがないそうだ。
この戸倉には「タブの木」という直販所がある。ホヤの旬は夏だ。夏に行って、”かわいく”お願いするとさばいてくれろるそうだ。






その次はホタテ。かごに入っている。
まだ小さくてこれも食べるには早すぎるが、もう少し大きくなったら、それぞれ穴を開けられ、間を開けて海に吊るされる。
その方が生育がいいそうだ。それを「みみずり」という。











最後は牡蠣。あと10日程で解禁。
これは育ってるはず。と思ったら、出てきたのは昆布(?)やムール貝の塊。
それをバスバスたたくと中からカキが出てくる。こんなにムール貝に絡まれて大丈夫なのだろうか?



今回は新しく入れた機械の試しということで機会を動かした。何がどうなっているのかわからないけど、バリバリとれる。




帰り道、また揺れてきた気がした。しばらく落ち着いていたと思ったら、波の緩やかな内湾にいたらしい。波が荒い時には皆、内湾に避難するそうだ。確かにずいぶん違う。


陸に降り立った時はホッとした。たまには船もおもしろいけど、堅い陸の上に降り立つのも「いいね!」。







中を割ってみせてもらった。ブリブリ肥えた牡蠣が出てきた。でも、これは卵がまだいるそうだ。細かい線が入っている白い部分が卵、焼いて食べる分にはいいが、生で食べると普通はあたってしまうそうだ。

















でも、阿部さんの知り合いの漁師さんはもう何十年もそんな牡蠣を食べ続けているけど、全く元気だそうだ。卵を出したころが食べごろ。今年の牡蠣も豊かに育った。

間もなく解禁です!!








帰りは、カッパエビセンと柿ピーが出てきたので、おやつかと思ったら、うみねことこれで戯れるそうだ。みんな楽しそうに餌をやっていたけど、私はお腹が空いて1/3程自分ががいただいた。以前、伊里前の商店街で食べていたコロッケパンを取られたのでおあいこだと思う。








帰り道、また揺れてきた気がした。しばらく落ち着いていたと思ったら、波の緩やかな内湾にいたらしい。波が荒い時には皆、内湾に避難するそうだ。確かにずいぶん違う。









そして、到着。

船もいいけど、やはり、しっかり重力を感じられる陸はいい。




帰りは奥さんの民子さんに震災の後の話しなどを聞き、とろろ昆布をもらった。





話しの中で、こりこりしてうまいと本タコの話しになり、冷凍庫から出てきたのが、タコのわさびづけ。なぜか歌津の丸荒さん製だが、おいしそう。
買って帰った。

楽しかった! やっぱ知らないことを体験するのはおもしろい。

今度は自分で切った木で家を立てるワークショップ。日程的に難しいが、行きたい!


by 河崎

2013年9月23日月曜日

震災遺構

今、どんどん震災遺構が消えていこうとしている。


2011年5月の南三陸町志津川。現在残っているのは、防災対策庁舎と高野会館のみ。



 「国の復興推進委員会の中間報告(H24.9.28)において、「災害の記録と伝承」の重 要性が訴えられたが、記録の対象範囲や保存のあり方等、アーカイブに係る基本的な概 念について明確化されておらず、早急に検討すべき事項として指摘された。
特に、多くの人命が失われた震災遺構の保存のあり方について、関係者が受け入れ られるよう解決策が求められている。」
(「震災遺構に対する宮城県の考え方について」宮城県 震災復興・企画部 地域復興支援課ー平成24年11月30日発表)
これはほぼ一年前の報告であるが、1年が経過した今、国の方針は固まってきているのだろうか?

 9月9日、気仙沼市鹿折(ししおり)地区にうちあげられていた第18共徳丸の解体がはじまった。これに関しては市民アンケートの結果、半数以上が解体の方向に向いていたそうだ。

気仙沼市鹿折地区「第十八共徳丸」周辺(2013年9月12日)


 9月20日の河北新報には、南三陸町も防災対策庁舎の保存を断念したとの記事が書かれていた。正式発表は週明けになるそうだ。


 


  南三陸町の防災対策庁舎に関しては、遺構として残すことに賛否が激しく拮抗していた。今でもその状況は同じだろう。
 震災当時、町長をはじめとし、町の幹部職員を含む50数名が防災対策庁舎に居た。町民を災害から守るための緊急対策のためだ。その災害対策の拠点となるはずの場が、津波に流され、42名が犠牲になったという。個人の命がはかれるものではないというのはもちろんだろうが、町としての痛手も甚大だっだだろう。
 今でも、多くの人が防災対策庁舎跡を訪れている。その中には、そこで身内を亡くした人もいる。そこに立つと痛みが伝わってくる。写真や話しだけでは伝えきれない場とモノが持つ空間がそこにはある。南三陸町の防災対策庁舎跡が、他の震災遺構といわれるものとはまた違う重みを持っているのは確かだ。  
  それが、その解体決定の一番の理由として、国や県の補助がつかず予算の見込みがつかないから、というのはあまりにお粗末ではないだろうか? 町民の意向を尊重するというのは当然だと思うが、それは町に全てを投げ、放置するということでは無いと思う。


2011年7月25日@「3.11の経験から学ぶ体験交流会@南三陸」(全国子ども会連合会企画)

  上の写真は全国子ども会連合会の研修の中の南三陸町ジュニアリーダーチーム「ぶらんこ」によるツアーの一部だ。このツアーに参加した広島県から来ていたジュニアリーダーは広島に帰って、ラジオ出演、報告会の開催などで精力的に南三陸町で学んだことを伝えているという。
 広島には 「原爆ドーム」という原爆の遺構がある。第二次世界大戦後、原爆の傷跡を「伝えていく」という責務を負ってきた「広島」という地に原爆ドームが存在することにはどういう意味があるのか。

 この機会に「伝える」 ことの重要さと重みを私たち一人一人が考えなければいけないのだと改めて思う。
 また、これは町だけの問題にしてはいけないと思う。それを声にするのも私たちの仕事かもしれない。


by 河崎清美

2013年9月21日土曜日

FORTUNE宮城vol.7

 もう9月も下旬になった。
発行して送付等でバタバタしているうちにエコツアーカフェでのトークも終わった。時の経つのは本当に早い!!怖いくらい。
2011.3.11の震災から2年半が過ぎた。FORTUNE宮城の創刊から1年と4ヶ月が経とうとしている。今回のトークで、言いたい事が伝えられたとは決して言えないけれど、自分の中で振り返る機会にはなった。

 編集のノウハウもなければ、関わった経験もない自分が熱意だけで始めた創刊号。震災後に入ったボランティア活動で被災地の中と外をつなぐ立場だった経験から、事実を外に伝えたいと熱意だけで始めた。内と外をつなぐというのは創刊当初から思っていたことだが、少し変わってきたのが3号目からだった。巻頭のページには「ここで興ってくるものは、もしかすると、日本中、いや、世界中を変えることができるものかもしれない。」と書いている。既成のものが壊されたからこそできた隙間。今がチャンスと思っている人は多い。

 今、被災地の状況も常に変化している。震災直後の混沌はある程度整理され、生きていく為にそれぞれがそれぞれの立場で生き方を選び、決断しなければいけない時期にきている。被災地に残る人、故郷を離れ外に生活の場を決める人、新たに被災地に住むことを決意した人、震災で今までの仕事を閉じた人、震災がきっかけで起こした事業が波に乗った人、それぞれの方向へ向かう。地域的にも、それぞれ違った復興の仕方がある。交通の便のよいところと一日に数本しか無いバスを乗り継がなくては行けない場所では復興の速度も違う。地域性もある。
 
 それぞれの道をそれぞれが考えて進まなくてはいけない。

編集長 河崎清美


2013年8月26日月曜日

JCN現地会議@南三陸町

8月23日(金)JCNの第7回現地会議があった。
南三陸ホテル観洋で開催された。南三陸町では初めてではないだろうか。



テーマは
〜人が集まり、つながり、元気になる地域づくり〜
内容は言葉が伝える雰囲気よりも重かった。
全体を通して考えてみると、よそ者の役割、そして引き際というものを考える会だったように思う。


JCN宮城県担当の池座さんより、初めの挨拶で、「復興まちづくり」をテーマに、外から来た支援者が自分たちががやりたいところをやるのではなく、地域主体で地域づくりをしていかなければいけない、という話しがあった。
それは、繰り返し繰り返し、支援に入っている団体は自らに言い聞かせていることばである。しかし、ふと振り返ると、そうはなっていなかったりもする。

第二部で発表された事例、阪神・淡路大震災後のまちづくりを協議会を起こすところから地域住民の方と行ったが、10年後に様々な問題が噴出し、結局、協議会は解散した、という話しはなんだか身につまされるものがあった。

神戸 まち・コミュニケーションの宮定さんが事例を語る

今でも、長期滞在するボランティアに対して地元住民から疑問の声があがっているのを聞くこともある。ボランティアから地元住民になった人もいる。
いつまでやるのか、どこまで踏み込むのか。
「それを回避するためにどうしたらいいんでしょうか」という問いに対して、「それがわかっていればそんな状況にはならなかったでしょう」。つまり、答えは自分で見つけるしかない、ということなのだ。

FORTUNE宮城は、外への発信を目的にした情報誌だ。決して特定の地域のことを後押ししているわけではない。そんなよそ者目線を持つ情報誌がなんの為にいつまで必要なのか、地元に定着して、地元紙になることがあるのか。
自分自身に課題を突きつけられているような気になった。

by 河崎清美

2013年7月27日土曜日

雨の南三陸町で輝く

  7月25日。今ひとつ晴れない天気の下で、輝いている若者たちがいた。
群馬、東京、志賀、広島から集まった小学生から高校生14名とジュニアリーダー「南三陸町ボランティアサークルぶらんこ(MVCぶらんこ)」の6名の中高生だ。

22日から始まった全国子ども会連合会が主催する「3.11の経験から学ぶ体験交流会@南三陸町」の現場での最終ワークショップだ。



まずはMVCぶらんこが志津川の町歩きを先導する。
さんさん商店街→防災対策庁舎跡→(ぐるっと川沿いを歩いて)→志津川中学校→さんさん商店街。


献花、黙祷
防災対策庁舎では大勢の町の職員が命を失ったという話しを聞く。


初日の自己紹介では「人に誘われたから」、「おかあさんに行ってこいといわれたから」、「4泊5日が魅力だったから」等と照れくさそうに言っていたが、いつの間にかまっすぐ前を見つめている。










 八幡川は今にもあふれそうだ。(多分、26日の雨であふれただろう……)
「普通」ではない。






八幡川を超えて、ぐるりとまわり、志津川中学校へ。




大人は見ただけで嫌になってしまう。が、子供たちは平気で登っていく。
志津川の中学生は毎日この道を登っていくのだ。

津波災害の心配がない町から来ている子どもにとってはとても不思議なことだろうが、ここの子供たちにとって当たり前のことである。どこの小、中学校も高台にある。それでも、津波をかぶってしまったところもある。

志津川中学校の中には戸倉中学校もはいっている。




雨と霧でよく見えないが、ここからは南三陸町を一望できる。






ぐるっと一回りして落ち着いたところで、メインのワークショップに入る。



「1人じゃできないけど、みんなでできることをみつけてみよう」

スタートは今日一番心に残ったことから。
発想を広げていく。
 例えば、スタートが「タコ」だとしたら、私達ができることは、「たこを沢山食べること」。すると、「消費拡大」につながる、すると……と言った具合だ。それをどんどん広げていく。
そして、最終目的をみつける。



アイディアを出し合う。



組み立てる


そして、大きな目的まで行き着く。

大人はどうも、漢字が多くなる。このワークショップが見ているものは、「目的」を見つけることじゃない。プロセスが重要なんだ。ということは、頭じゃわかっているんだけどね。

子どもの発想はもっと柔軟だ。
例えば、こんな具合。

ワカメ→海をきれいに使う→ワカメがいっぱいできる→ワカメを買う人が増える→サザエさんのワカメちゃんが有名になる→フジテレビがもうかる→フジテレビが南三陸町へ来る→注目度up→募金が来る→復興→ワカメパスがゆるきゃら業界を支配する。

かなり、跳ぶところもあるが、そんなことはどうでもいいのだ。




全国から集まって来た子供たちが一つの場に集まって話しをする。
それがなぜ被災地、南三陸町だったのか。



南三陸町は震災によって多くの試練を与えられた。でも、同時に、沢山のチャンスも与えられた。この平になった空間に、何をつくっていくのか。。。人の目は集まる。そして開拓者らも集まる。

復興を急ぐ声は高い。誰もが「日常」を取り戻したいのだ。特に今までここを守って来た人々は。しかし、次にここをつくっていく人にもこの場をつくりあげていくチャンスを与えてみたい気もする。


by kyon




2013年7月6日土曜日

小泉(気仙沼市本吉町)を歩く2

6月22日の午後は人数も増えて、陸を中心に歩いた。
お昼は瓦礫処理場の前にある「粋膳(すいせん)」で食事をしながら、高台移転の話しを聞いた。



購入:「小泉の明日を考える会」HP


小泉では震災直後から協議会「小泉の明日をつくる会」ができ、高台移転の話しがいち早く進んでいる。昨年は移転先の街並みの景観を統一化するため「街づくり協定」を運用する株式会社をつくった。
高台移転についての詳しい情報は
「大好きな小泉を子どもたちへ継ぐために―集団移転は未来への贈り物 」
にまとめられている。




食事のあとは、いざ、目の前にある瓦礫処理場へ。





小泉地区の瓦礫処理場は中に入ることができる。
ここの守衛さん、とても親切だった。女子が多かったからなのか。。。

広い


広い


働いている人もなぜかあいそがいい。手を振ってくれる。



そして、ここにはコミュニティセンターがある。共同浴場もある。ネットカフェもある。
しかも、コーヒー無料。


風呂屋。でも、女子の日と男子の日が交互にくる。気をつけてください。


インターネットも使える

宮城県が出す「復興現場の歩き方」観光案内だ!!


コーヒーなんて出してくれるから思わず長居をしてしまったが、さて、次へ。



 こここは津波前つながっていたそうだが津波によってごっそり削られた。
それも、ここは地層が隆起しもともとつながっていなかったところに土が堆積し一つの小さな山になっていたそうだ。
地質学者とかマニアとかいろいろな人がここを見に来るらしい。

両側地層が違う
 

左側の山には元々社があったが、いつの間にかだれかが右側にも社を置いたらしい。



小泉小が見える。多くの避難者がそこで暮らしていた。震災前はこの間に町が見えていたが。もう無い。
反対側には瓦礫処理場。
この瓦礫処理場も今年中に仕事を終え、全て撤去される予定だという。
瓦礫はどこに行くのか、また、撤去されたものはどこにいくのか、そういえば、何もしらない。



防潮堤のことにしろ、瓦礫処理場のことにしろ、まずは知る事からはじめないといけないと改めて思う。






小泉(気仙沼市本吉町)を歩く1

6月22日のことです。(遅くなってごめんなさい)

小泉には何度も足を運んでいたけど、海岸を歩くのは初めて。

今日は小泉地区に住む阿部正人さんに小泉を案内してもらう。午前中は「小泉cool なおやじの会」午後は「RQ災害教育センター」のツアーということ。どちらにせよ、阿部正人さんが講師だ。

赤いジャケットを来ているのが阿部正人さん


阿部さんが着ているのは南三陸町のジャケット。
阿部さんは南三陸町の小学校教諭でもある。
小泉の40代、50代の人は「シーサイドパレス」で結婚式をあげたという人がばかり。一つだけ流されないで残っているはその建物だ。このさき200mまでは陸が続いていたという。そばにはボーリング場もあったというが、すっかり流されている。
その代わりにあるのは、ひろ〜〜い砂浜。
実はこの砂は震災後に帰って来た砂だった。昭和40年代に町が砂浜を広げる計画でテトラポットを海に入れ、砂浜ができ易い状況にしたということだ。

ここで、まずやったのは建設予定の防潮堤の大きさを計るワークショップ。
小泉地区には高さ 14.7mx接地幅90mというスーパー防潮堤の建設が計画されている。

底辺をメジャーで計ってみた。写真の中に立っている木片はちょうど中心くらいになる。
高さは旧シーサイドパレスの高さよりも3mくらい高くなるらしい。人が立っているあたりが始まりと終わりだ。




中には、走ってみようという輩も。。。。




結果は敢えて言わない。。。。

遠くから見ると、こんな感じになる。


これが新しくできた砂浜の上にこの大きさのコンクリートのピラミッドが連なるわけだ。
14.7mx幅90m。数字でも大きいのはわかる。でも、実際の場所で計ってみるとその大きさに体感で圧倒される。
その後は新しくできた浜と干潟を見て歩いた。
これは石を溶かす不思議な貝


ここら辺はずっと田んぼが広がっていたらしい。
いまは塩水に使っている。

かにの穴がそこらへん中にある。

干潟も帰って来た。黒い点は全てタニシ?とにかく生きものだ。

牡蠣もいる



生だけでなく、時には死と直面することもある。




小泉の浜は豊かだ。


私たちがツアーをしている間、気仙沼復興協会(KRA)さんが多くのボランティアさんを引き連れて海岸清掃をやっていた。そうやって、清掃もされている海岸。
今の子供たちが大人になった時に、子供たちはまたこの海岸の自然を満喫することができるのだろうか。