2015年6月23日火曜日

人が集う場づくり1

6月20日、日も暮れかかった頃、南三陸町入谷地区の廃校になった小学校。宿泊施設兼レンタルスペースとしてリノベーションされ、地域内外の人に活用されている「さんさん館」で、トークイベント、「ヒトが集う地方、リノベから見えてきた新しい価値のこと」が開催された。
以前図書室だった部屋に年齢も立場も職種も違う人々が集った

今回紹介があった「medicala(メヂカラ)」のお二人は若いご夫婦のユニット。全国で古い建物をリノベーションして、人が集う空間づくりをしている。デザイン、ハード面を担当するのはアズノタダフミさん。おもてなしや食事を担当するのは奥さんのカナコさん。

現場に手を貸してくれた人とは、カナコさんの手づくりのおもてなしで食を共にし、コミュニケーションをとる。
「現場めし」https://www.facebook.com/genbameshi


真ん中左がアズノタダフミさん、左はカナコさん

二人はどこでも行く。その土地に住み、人と出会い、そこのものを使い、プロ、素人関係なく共に空間をつくりあげていく。ゲストハウス、 カフェ、そば屋、バー、施工主の多くはあまり資金も無い若者。多くの人を巻き込んで造ってきたお店は愛され、どこも繁盛しているそうだ。

詳しくは以下のページをご覧ください。
「Medicala / アズノタダフミ」https://www.facebook.com/medicala

 

現在進行中の気仙沼市馬籠地区のリノベーション現場

はがした床板は糠で磨いてまた使用する
素材にはその家の歴史も刻まれている










before

お手伝いに来た南三陸ブックスの助っ人と現場で記念写真
二人は、住まい兼事務所としてリノベーションした「メヂカラハウス」にはじまり「ゲストハウスnui(東京)」、「ゲストハウスtoco.(東京)、「cafe & bar totoru(東京)」
 「手打ち蕎麦くくり(愛知)」、「萩ゲストハウスruco(山口)」
 などを手がけてきた。

「メヂカラハウス」https://www.facebook.com/medicara
「ゲストハウスnui(東京)」http://backpackersjapan.co.jp/nui/
「ゲストハウスtoco.(東京)」http://backpackersjapan.co.jp/
「cafe & bar totoru(東京)」http://totoru.jp/
「手打ち蕎麦くくり(愛知)」https://www.facebook.com/pages/%E6%89%8B%E6%89%93%E3%81%A1%E8%95%8E%E9%BA%A6%E3%81%8F%E3%81%8F%E3%82%8A/531193496940478
「萩ゲストハウスruco(山口)」http://guesthouse-ruco.com/


 デザインとは おしゃれな外観をつくるものではないという。お二人の仕事をみていると、使われる場や使う人、素材、用途、それらを活かすことがデザインなのだと思われる。
共に、つくることを通して気持ちが一つになる。人が活きる。一つの磁場ができる。
 プロの技をみせる部分、素人のアイディアが光る部分、地域の素材を活かす部分、多様性が生み出す場は、多様な人が集まる場になっていく。
そして、その場は新しい価値や創造を生む場になってくるのかもしれない。
そんな場づくりを展開している「medicala(メヂカラ)」のお二人のお話は参加者への刺激になったようだった。


 全国で空き家の問題があがっているが、南三陸町、登米市でも状況は同じだ。空き家はあるがすぐには住めない。移住を決めたが、借りた場所は手を入れる必要がある。自分の家を改装し、店舗として使いたい。地域を訪問する人、地域の人が集える場所をつくりたい。人が集う場、住める場は切実に必要とされている。また。周辺は質の良い杉が育つ地域でもあるのに、木材が活用されていない現状をなんとかしたいという声もあった。


 勢いがついてきた。待っていても問題が解決しないのなら、自らが動く。住宅不足、森の活性化に弾みがつきそうだ。

  震災は被災地に地域外から多くの人々が入ってくるきっかけになった。一旦は故郷を離れた人も帰ってきた。そんな人々を中心に、地方 の暮らしについて考える会が南三陸町で2014年からはじまった「第二のふるさとカフェin南三陸」。そして今年(2015年)、南三陸町の本好きが集 い、本について語り、やりたいことをやろうじゃないかと始まった「みなみさんりくブックス」。今回はその二つの活動のコラボ企画。南三陸町と登米市からの参加があった。

仕事が終わってのイベント、食事付きがうれしい。
この日の料理はコミュニティカフェ、コモンズさんから。

by 河崎清美


2015年6月19日金曜日

一次産業をワクワクさせる出会いの場「宮城県北こせがれネットワーク〜Team Pigs〜」

6月17日、大崎市古川のウラバタケカフェに集ったのは「宮城県北こせがれネットワーク〜Team Pigs〜」の面々。

農家、畜産農家、林業女子、飲食店経営者、編集者、焼物屋さん、木工芸デザイナーなどなど、食と一次産業に関わる多様な職種の人が集まっていた。代表の伊藤さんは養豚農家。”Team Pigs”はそこから来ているそうだ。

夜で全容は見えなかったけれど、玄関の灯りには妙に誘われる
もっと明るいうちに来てみたい


この日は遅れてきた人もいるが、総勢15名程の人たちが集った


ここでは、若い世代の食や一次産業に関わる人たちが集り、お互いを知り、共に何かおもしろいことをしようとしている。
誰でも参加できるこの会は、毎月、第3水曜日に開催される。情報交換の場であり、それぞれの活動をアピールできる場でもある。全員が協力してイベントを開催することもあるようだ。
毎回「こせがれ授業」と題して、参加者が持ち回りでそれぞれの活動を皆に知ってもらうプレゼンテーションをする。
 この日は、美里町から参加のブシャンアケボノさんの発表。子どもの頃インドから移住して来たブシャンさんは、お父さんがインド料理店を経営している関係で子どもの頃から食に興味を持っていた。宮城県農業高校、県農業大学校で農業を学び、現在は有機野菜をつくっている。
インドでは、8割の人がベジタリアン。野菜もマメも香辛料も種類が豊富で、カレーには大量の玉ねぎを使うという。ガンの発症率も低いとのこと。


有機野菜づくりに込める思いを熱く語るブシャンアケボノさん。
野菜の保存方法にも興味をもっている。


「宮城県北こせがれネットワーク〜Team Pigs〜」代表の伊藤竜太さん
養豚農家の伊藤さんは、ブシャンさんと反対に子どもの頃から食卓にあがったのは豚肉



そのほか、「全国やきものフェア」、「どろんこバレー大会古川」など、それぞれが関わるイベントの紹介、新たに参加した人の紹介、新プロジェクトの提案などもあった。木づくりの食器をつくる工房秀の高橋さんは、もっと木づくりの食器をカフェやレストランで使って欲しいと活動する。この日は、昔田んぼで使われ、今は放置されている杭を何かに活用できないかという相談も持ち出されていた。

人が集まることで、思いもかけないアイディアが生まれることもある。あるところでは無用となったものも、別の場に行けば有用な資源になったりもする。そんな発想の転換も人が集まることで生まれてくる。

宮城には仙台を拠点にする「宮城のこせがれネットワーク」もあり、活発に活動している。
これからの一次産業を担う宮城の若者たちを見ていると、こんどはどんなことをやってくれるのか、楽しみは尽きない。


by 河崎清美






2015年6月2日火曜日

「NPO法人移動支援Rera」の報告会から学ぶ”おでかけ”の大切さと、”平時”への移行





 531日、NPO法人移動支援Reraの初めての報告会が石巻専修大学で開催された。
現代表の村島弘子さんとスタッフ。
オレンジ色の服がぬくもりを感じさせる。


 東日本大震災直後、石巻に入り、物資支援や泥だしをしていた札幌を拠点とするNPO法人ホップ障害者地域生活支援センターは、20114月頃から移動支援を専門とする「災害移動支援ボランティアRera」として活動するようになった。活動は徐々に地元スタッフに移行していき、20132月には「NPO法人 移動支援 Rera」となり活動を継続している。利用者数はのべ8万人、総合走行距離は25万キロ。需要は高い。

 報告では、震災直後の状況から地元スタッフへの移行の様子、日々の活動の報告等がされた。利用者の半数以上は、70代、80代の一人暮らし、二人暮らしである。9割は通院。その他、買い物、老人施設への送迎などもあるが、遠慮してなのか、「おでかけ」のための利用はあきらめている、という人が多いようだ。

震災直後、人気だったのはお風呂送迎。お風呂に入る前「もう死にたい」
と言っていた利用者が、帰る時には「生きていてよかった」と話していたと、
今では笑い話にもできることが、当時は切実な問題だった。


初期の手づくり看板


Reraボランティアの方々



廊下の展示を見ながら当時のことを思い出した人も多かった人も多かっただろう

 避難所から仮設住宅へ、生活も環境も時を追って変化してきたが、ニーズは変わらなかった。震災以前からの問題が震災で悪化し浮き彫りになったという。
 被災地では加えて、元々バス路線の通っていない地域への仮設住宅建設、病院の閉鎖や遠方への移転、家族構成の変化で送迎をしてくれる人がいなくなったなどの状況の変化に、さらなる対応が求められてきた。それでも、平成27年度までは、被災地の地域交通は、国土交通省の財政支援に支えられてきたが、それも終了する。今でも、全国からボランティアは集ってくるが、いつまでも外部ボランティアに頼ることはできないので、地元スタッフの獲得のため、講習会などを開催してきた。
 人材の獲得、資金繰り、 「平時」を取り戻していく過程での課題は山積している。


 地域交通政策やまちづくりを研究している福島大学の吉田樹(いつき)先生からは、「おでかけ」の意味と地方交通政策の現状について話があった。

福島大学の吉田樹先生











住民調査によると、移動販売車に来てもらったり、生活支援サービスを頼ったりするよりも、自らが足を運んで買い物をすることを望む声が強い。
「どうでした?」「いっぱい話したよ。久しぶりだったからね。」車の中で話されるたわいのない日常会話。そんな会話も一人ではできない。車の中でのなにげない会話、それが、こころの安定につながる。地域交通が、物理的に必要なものを求めることだけでなく、心の解放や体の機能を支えることにもつながる。
 地域交通事情は 被災地に限らず、どこの地方でも問題を抱えていることがらだろう。国も人口減少、少子高齢化が急速に進む今、現状に会わせる方向で、法律の改正なども行っているが、実際にマネジメントするのは地方行政になる。

 地方では、赤字経営や人材不足が問題になっているが、全く手だてが無いわけでもないだろう。地域の取組としては、事業者や地域の枠を越えた連携とネットワークが解決の糸口になり得る。
 栃木県や山形県での例も紹介された。 病院の外来時間、大型商業施設、鉄道駅、温浴施設へのアクセスを便利にするだけで、利用率も変わる。栃木県足利市では、おでかけできる範囲を広げ、本数を増やすことも利用率アップにつながり、高齢者以外の利用者も、収入も増えたそうだ。
山形市明治・大郷地区の「スマイル・グリーン号」はデマンド型タクシー(注1)として開始したが、地域住民との話し合いで、サービス水準を決めたり、「スマイル・グリーン号」を巡る各種イベントを通じ、地域に愛される「地域車」になっているという。

スマイル・グリーン号のイベントに沸く地元を紹介

 復興まちづくり計画では「生活難民」をうみださないよう土地利用計画ととも に交通戦略をかんがえなければいけない。そのためには、各自治体の「平時」の素地が大きく反映されるが、平時に地域交通の問題が表に出てくることはあまりないらしい。今まで問題視されていなかった問題は復興計画 にもなかなかあがってこないのが現実だということだ。
課題は山積しているが、地域交通の問題が表面化している被災地の今は改革のチャンスか もしれない。
 住民が自ら考え実行に加わってこそ、輸送だけでない福祉の可能性が広がっていくのではないだろうか。

by:編集長 河崎清美

注1【デマンド型タクシー】
ドア・ツー・ドアの送迎を行うタクシーに準じた利便性と、乗合・低料金というバスに準じた特徴を兼ね備えた移動サービス。
(「日本総研」ホームページより http://www.jri.co.jp/page.jsp?id=6953 )


NPO法人 移動支援ReraとNPO法人 地星社の恊働で実施されたアンケート調査の結果が、調査報告書、「宮城県沿岸被災地における移動困難者の状況調査〜石巻地域の移動困難者へのアンケートから〜」としてまとめられている。







報告会のあとは、カフェ市
(昨年オープンした福祉作業所が運営するカフェ)
のお菓子とソフトドリンクで交流会



2015年5月30日土曜日

気仙沼NPO/NGO連絡会ー継続は力なり

気仙沼NPO/NGO連絡会は2011年に始まった。
震災後のまだ緊急支援が必要な時期、全国から集った支援団体がどう動いているのかお互いの行動が見えなかった頃、重複する支援や誤解を解消し、コミニュケーションを深めていこうという目的で始まった。
その頃のことは、FORTUNE宮城vol.4の記事に掲載している。


http://www.fortune-miyagi.com/_src/1330290/p11_p12.pdf

発足当初は気仙沼市外からの団体が多かったこの会も、4年が過ぎた今、地元の団体が主体になっている。市外から移住した方々もいる。
各団体からの報告では、仮設住宅の今の様子、課題、問題への対処状況などを共有し、改善点などが話し合われる。

2015年5月29日(金)の気仙沼NPO?NGO連絡会

5月29日(金)の報告では、今、仮設住宅から災害公営住宅への転入がすすんでおり、新しいコミュニティ形成が必要になっている。それを助けるために「新緑を楽しむ会」と称して、近辺の在宅の方々、新しく災害公営住宅に入られた方々、これから入る予定の方々に声かけし、一緒に災害公営住宅を見学し、お茶会をしてコミュニケーションをとる場作りをしたという報告。健康相談を開催したところ、先の見えない状況に不安が募っている人が多く、不眠の訴えが増えているということ。「とにかく、話したい人が多い」という報告に、別の団体からも別の地域の同じような状況が報告される。心のケアが必要なのだろうけど、「心のケア」と言うと集りが悪いので他の名目の集りにして話しを聞くのがよい、個別で話さないとなかなか話せない、などのアドバイスもでてくる。

市の方からは新たに開設されるこれからのまちづくりのための会議のお知らせと呼びかけ、各種イベントのお知らせ、サポートの募集などもあった。他の団体にも有益な情報もある。

市や社会福祉協議会も参加する連絡会はめずらしく、緊急事態であったからこそ始まったものだろう。今は、被災地特有の問題の情報交換が主になっているが、全国的に少子高齢化が進んでおり、家族構成も以前とは違ってきている今、行政だけが福祉業務を担うのは無理があることは目に見えている。
官民一体になった連携の場が必要になってくるのではないかと思う。

被災地では、「ほんとうに大変なのはこれから」という声をよく聞く。震災直後は支援の勢いもあった、支援金も潤沢に流れて来ていたが、その勢いも時間を経るにつれ衰えている。NPOの継続も容易ではない。震災後の復興の過程で見えて来た問題の根を掘っていくと、ほとんどが震災以前の問題に行きつく。

被災地は日本全体が潜在的に持っている問題の上に、震災のダメージが 覆いかぶさっている。しかし、同時に、変化のチャンスも与えられた。社会を変えるかも知れない沢山の芽が出ている。その芽を育んで、日常に根付かせ、「復興」の後押し無しで自立できてこそ、本当に社会を変えることになるのだろう。厳しい時期にはなるが、希望の持てる社会を目指して歩んでいって欲しい。それは、被災地だけの問題ではなく、日本全体が共有し、目指していかなければいけない指標なのではないだろうか。

気仙沼NPO/NGO連絡会の活動は目立つものではないけれど、2011年から毎週金曜日開催を継続している。各NPOは地域別に地道な密着支援をしているところも多く、地域の信頼も、行政からの信頼も厚い。そして、外からの声かけにも答えられるプラットフォームの役割も果たして来た。地味な活動ほど、日常では大切なことかもしれない。継続するだけでも苦労はあろうかと思うが、今後の展開に期待したい。


by 編集長 河崎清美



2015年5月20日水曜日

女川ー”交流”が町を元気にする



【”交流”が町を元気にする】


2015年5月14日、女川に広島県福山市から7名が訪れた。「日本赤十字奉仕団」2013年から毎年有志を募って女川わを訪れているという。迎えるのは「女川桜守の会」http://sakuramori.minibird.jp/と女川町社会福祉協議会の皆さん。 一行と合流したのは、女川の平野部を見渡せる高台にある女川町地域医療センター(旧女川町立病院)の駐車場だった。
女川診療所の敷地からはかつて女町の中心部だった平野部を見渡せる
工事の様子を眺める女川桜杜の会のメンバーと福山市赤十字奉仕団の皆さん

「もうちょっと(病院が)高い、思よったが……」一年ぶりに訪れた福山市赤十字奉仕団の方からそんな言葉が漏れた。久々に来ると病院が思ったよりも低く感じるという。「かさ上げが進んだからなのかも知れないですね」と桜守の会のメンバーから声が返る。目の前の荒涼とした土ばかりの区画にはトラックばかりが走っている。一年前は、そこに倒れたビルがいくつか残っており、震災遺構として残すかどうかも検討されたが、耐久性、復興事業への影響などから「旧女川交番」を除き撤去された。わずかだが、新しい建物もできている。
同じ風景を見ても、毎日見ている人、たまに見る人、初めてみる人では感じ方も違うだろう。

女川中学卒業生が「千年後の命を守るために」と
募金を集めて建設した「女川いのちの石碑」

続いて、女川中学卒業生がつくった「女川いのちの石碑」の前で手を合わせたあと、新設された女川魚市場と震災後早い段階(2012年)にオープンしたトレーラーハウス宿泊村、エルファロの前をまわって、女川駅隣にできた「女川フューチャーセンターCamass(カマス)」で、交流会が開催された。

トレイラーハウスということを忘れてしまうような爽やかな空間。
敷いたばかりの芝生も一ヶ月後には青々とし、ピクニック気分も楽しめるという。

お互いの団体とメンバーの紹介から始まる。



女川桜守の会の設立の経緯、現在の活動などを丁寧に紹介していただく。
震災前、女川には沢山の桜があったが、多くが津波で流された。その中の一つ、旧第二保育所の園庭跡にあった2本の桜は、上部の2/3を津波に引きちぎられながらも、残った幹に芽を出し、3輪の花をつけた。希望の象徴としてなんとか生きて新たな花を咲かせて欲しいと願う人々の気持ちはつながり、「女川桜守の会」も結成された。手厚く保護された桜は、次々と新芽を出しながらも、たっぷりと塩を吸い込んだ土と夏の熱射の打撃でついには息絶えた。しかし、伐倒された桜から継ぎ芽をした後継樹は育ちつつある。人と人をつなぐ新たな芽も残し、この会も催されている。


赤十字奉仕団の方からは、 昨年、広島県西側の一地区で昨年ひどい土砂災害が起こった時、福山からも応援に駆けつけたお話があった。災害はどこで起こるかわからない。

説明を追加

福山の方々も女川桜守の会のみなさんも、それぞれに別の活動もしている。ひときわにぎやかになったのが、福山で布の絵本をつくって施設に配布している「きしゃぽっぽ」のサンプルを見せていただいたときだ。
おままごとセットのようなおにぎり、サンドイッチ、水筒、弁当箱など、手づくりで見事に再現されているのを見て女性たちは身を乗り出して見入っていた。そのうち女川にも現れるのかも知れない。



説明布でできた制作物を手に取る女川の人たちを追加

2013年から訪れている「福山市赤十字奉仕団」の委員長、過田さんからは、「本当に完成した時に、果たしてどれくらいの人口になっているのか、仕事はあるのか。若い人がどれくらいいるのか」ということが問題だという話しもあった。少子化、高齢化の波は全国に押し寄せている。もちろん、福山にも。人事ではないだろう。


また、「マスコミの報道だけでは伝わらない部分もある。現地で自分の目で見て、聞いてわかることもある」とこれからも継続して女川を訪問する意思を伝えた。

女川最後の訪問地は「きぼうのかね商店街」。まだかさ上げ工事が進むなか、植樹をすることはできないので、この敷地内に若い桜の木が保管してある。新芽がひらき、若い元気な葉が生い茂っていた。


「きぼうのかね商店街」で食事をとった一行は女川を後にし、岩沼へ向かった。「桜守の会」では、毎年100本桜を植え、1000年で10万本という夢ももっている。
福山市赤十字奉仕団の皆さんが来年訪れる頃には、市街地に青々と茂る桜を見ることができるかもしれない。



2015年3月21日に再開した女川駅は、温泉もある複合施設、「yupoppo(ゆぽっぽ)」を併設し、町内外の人々がくつろげる空間になっている。

女川駅/yupoppo


駅の隣にできたCamassは、「町内外の人々が集まり、新しい交流をすることで「新しい仕組み」を生み出し、町の活性化の一助になる場所となることを目的とした施設」(Camassホームページより)として、コワーキングスペースや会議室などもあり、各種イベント、さまざまな課題が議論されるフューチャーセッションも企画されている。近くには水産業体験館「あがいんステーション女川」(6月14日オープン予定)が建設中だ。

女川は、町が一体になって「おもてなし」の体制をつくっているようにもみえる。
震災後に訪れた多くの人も女川が変わる様子を見に来る楽しみもできた。

被災した町が訪れる人に力をもらい、元気になって来た町に今度は訪問者が力をもらう。それがどんどん広がっていけば、みんなが元気になる。それが”交流”というものかもしれない。

by  編集長 河崎清美














2015年5月18日月曜日

防潮堤をめぐって

石巻市渡波地区の防潮堤の建設がだいぶ進んでいるというので、足を運んでみた。
元もとあった堤防を包み込んで防潮堤がのびている。
建設中の防潮堤の背後には松林が広がる。震災前は海水浴場もあったという。




県北沿岸から南下していくと、誰しもがどんどん山が遠くなるのに気付くだろう。

気仙沼や南三陸町と山元町では、風景が全く違う。気仙沼や南三陸町では、海沿いを走る幹線道路を通ると山はすぐそこに見えるところが多いが、山元町まで行くと広大な平野部にいちごハウスが並んでおり、山ははるか向こうに見える。


渡波も山元町程ではないが、山は遠い。「防潮堤より避難道を」と気仙沼の女性達が中心になって声かけを続けている。ここのように平たい土地では、どう避難するのだろうと心配になる。
人に聞いてみると、激しい地震の時には、「高台に避難して下さい」という放送があるそうだ。しかし、どの山で、そこまでどう行けばよいのだろう?そこの住人は知っているのかもしれないが、旅人にはわかりにくい。


通りすがりの人にお話を聞いてみようと思ったけれど、人はほとんどいない。
釣りをしている人を眺めていた男性に話しを聞くと、松林の前は海水浴場になっていたという。そこには堤防も作られておらず、水はそこから入って来たそうだ。牡蠣小屋、ホヤの話しも聞いてお腹が刺激された。牡蠣小屋までもたないと思った時、「カフェらめーる」という看板が目に入った。海は見えないが、海からの風が心地よい。庭にもウッドデッキにも花が植えられ、殺伐とした風景の中に色を添えている。ここの土地、生活を愛しているのだろうと感じる。ホヤか牡蠣を食べるはずが、ナポリタンを注文し、とりあえず落ち着く。オーナーのご夫妻は3.11の3ヶ月前に横浜から移住したばかりで震災にあったそうだ。





震災の3ヶ月前にこちらに移り住んだというマスターにお話をうかがった。

元々あった堤防は5m弱。8mの津波は軽々と堤防を越え、背後の住宅地を襲った。それでも、堤防があったから波が弱まったのだろうという。元建築関係の仕事をしていたマスターは現在建設中の7.5mの防潮堤を盲目的に信じているわけでもない。
草が生えているところは穴が開いて土が出ているところ
このひび割れも震災後できたものか



どれだけ強固につくられていても、ひずみは出る。時と共に劣化もする。今回の津波でも、何十トンという津波の重さで、道路に穴が開いたそうだ。それでも、無いよりはある方がいいだろうという。
 
防潮堤に対しては様々な意見がある。そこに住む人が漁業を営んでいるか、商業地区であるか、住宅地か、観光地、農地、その土地の主幹産業によっても違うだろうし、地形によっても、歴史的な背景でも違ってくるだろう。
前日訪問した女川町は山や高台が多く、平地が少ない。その少ない平地に巨大な防潮堤を作ってしまえば、土地利用も制限される。結果的に、平地には誰も住まないで、防潮堤をつくらない選択をした。

震災後、被災地では多くの話し合いがもたれて来た。あたらしいまちづくり、高台移転、震災遺構、防潮堤などなど。様々な意見があるなか、それを一つにまとめるのはたいへんなことだと思う。皆が同じ方向を向くのは不可能なことのような気がする。お互いが納得するための努力を惜しんでは将来への遺恨を残すことにもなるだろうが、いつまでも話し合いを続けることもできない。被災地は難しい局面が続いている。

しかし、50年後の地域に何が残せるか、を考えて行くと、おのずとある程度は同じ方向に向いていくのではないか、と思う。
試行錯誤の中で生まれる新しいまちが、日本を明るくする力になって行って欲しいと願う。

by 編集長 河崎清美

2015年5月10日日曜日

カルタで見える石巻の風情


 ゴールデンウィーク最終日の56日、石巻グランドホテルでカルタ大会が開催された。
少し遅れてドアを開けると、真剣に向かい合う二人が3組。既に対戦がはじまっていた。
「『ずよう』ってわかる?ずようきょうそう(滋養強壮)の『ずよう』だからね!」読み手の女性が語ると、会場に笑いが起こる。
話されることばは、仙台弁。東北のひとだったらわかるところも多いだろうが、西から来た人間には全て理解することは難しい。





カルタも箱も袋も全部手づくり

このカルタ大会の主催は自由大学「東北復興学」メンバーを中心にした「石巻カルタ制作実行委員会」。発起人は石巻出身、東京在住の浅野郁美さん。
浅野さんの石巻の実家は津波で流され、ご両親は震災後、仙台市に移り住んでいる。
「震災後、どんどん変わって行く石巻を見て自分が取り残されて行くような気がしたんです。」と語る浅野さんは、「石巻の人が知っている石巻を石巻の人と共有したい」と思ってこの企画を考えたという。


発起人の浅野郁美さん(左)とイラストを描いた高橋奈保子さん(右)「人とつながることでここまで来れました。」と語る二人。


「東北復興学」のメンバーを中心に立ち上がった「石巻カルタ制作実行委員会」には心ある仲間がつながり、2年をかけて、カルタが完成した。文言のネタは、郁美さんの友達や知り合いに声をかけたり、石巻出身者を中心に大森(東京)で開催されている「石巻マルシェ」で「あるあるを集める集い」を開催して集めた。カルタは一枚一枚、手づくり。決まり字(最初の文字)は消しゴムはんこでつくり、イラストは友達に紹介され参加した美大出身の高橋奈保子さんが描いた。高橋さんは震災後の石巻しか知らないので、イメージしにくいものも多かったが、何度か石巻を訪れ、地元の人の話を聞いたり、元存在していた場所に自らの足を運んでみることによって、ようやくイメージがつながって来たという。
実行委員会のスタッフは、忙しい仕事の合間を縫っての制作だった。

「上映中『お電話ですよ!』岡田劇場」、「ちりんちりん 市民プールで なぜか大福」。
文言が読まれると、「やってた。やってた」、「そういえば、大福売ってたねー」などと周りで観戦している人々からも声があがる。
「おらいも おだくも あべ、あべ、あべ(阿部、安倍、安部)」、「運動会 空にはためく大漁旗」、「んだ んだからー んだがらっしゃー!」。
町の小ネタは、地域の特色、習慣、独特の言い回しが文言の中に含蓄されている。そこには、気取らない人々の日常のいとなみ/文化が見えてくる。「昭和」という時代を感じさせる要素もある。そして、それは不思議と石巻出身でない者にも、田舎に帰って来たような懐かしさを感じさせるのだ。

手づくりのカルタ。決まり字(最初の文字)は消しゴムはんこで一つ一つ押した。
紙を貼るのも手づくり。


カルタの文言は全て解説つきで壁に貼られている














解説がまとめてある冊子も手づくり











 
石巻と東京、東京と東京、石巻と石巻、人と人をつなげ、多くの思いがつまったこのカルタは、時をも超えて人をつなぐ。ゲームとして楽しめるだけでなく、時空を超えて思いをつなげるツールにもできる。皆でカルタ大会をするのもよし、一つ一つてにとってみるのもよし。

「欲しい」という声もあがっているそうだが、今のところ、増版予定はまだ無いとのこと。一つには、一枚一枚、手づくりでつくっているため手間ひまがかかるということ。そして、資金的な課題も大きい部分を占めるという。

楽しみながら、震災前の石巻の風情を伝えられるこのカルタ、ぜひ、多くの人に知ってしい。いずれにしても、これからの展開が楽しみである。

by 編集長 河崎清美