2013年9月23日月曜日

震災遺構

今、どんどん震災遺構が消えていこうとしている。


2011年5月の南三陸町志津川。現在残っているのは、防災対策庁舎と高野会館のみ。



 「国の復興推進委員会の中間報告(H24.9.28)において、「災害の記録と伝承」の重 要性が訴えられたが、記録の対象範囲や保存のあり方等、アーカイブに係る基本的な概 念について明確化されておらず、早急に検討すべき事項として指摘された。
特に、多くの人命が失われた震災遺構の保存のあり方について、関係者が受け入れ られるよう解決策が求められている。」
(「震災遺構に対する宮城県の考え方について」宮城県 震災復興・企画部 地域復興支援課ー平成24年11月30日発表)
これはほぼ一年前の報告であるが、1年が経過した今、国の方針は固まってきているのだろうか?

 9月9日、気仙沼市鹿折(ししおり)地区にうちあげられていた第18共徳丸の解体がはじまった。これに関しては市民アンケートの結果、半数以上が解体の方向に向いていたそうだ。

気仙沼市鹿折地区「第十八共徳丸」周辺(2013年9月12日)


 9月20日の河北新報には、南三陸町も防災対策庁舎の保存を断念したとの記事が書かれていた。正式発表は週明けになるそうだ。


 


  南三陸町の防災対策庁舎に関しては、遺構として残すことに賛否が激しく拮抗していた。今でもその状況は同じだろう。
 震災当時、町長をはじめとし、町の幹部職員を含む50数名が防災対策庁舎に居た。町民を災害から守るための緊急対策のためだ。その災害対策の拠点となるはずの場が、津波に流され、42名が犠牲になったという。個人の命がはかれるものではないというのはもちろんだろうが、町としての痛手も甚大だっだだろう。
 今でも、多くの人が防災対策庁舎跡を訪れている。その中には、そこで身内を亡くした人もいる。そこに立つと痛みが伝わってくる。写真や話しだけでは伝えきれない場とモノが持つ空間がそこにはある。南三陸町の防災対策庁舎跡が、他の震災遺構といわれるものとはまた違う重みを持っているのは確かだ。  
  それが、その解体決定の一番の理由として、国や県の補助がつかず予算の見込みがつかないから、というのはあまりにお粗末ではないだろうか? 町民の意向を尊重するというのは当然だと思うが、それは町に全てを投げ、放置するということでは無いと思う。


2011年7月25日@「3.11の経験から学ぶ体験交流会@南三陸」(全国子ども会連合会企画)

  上の写真は全国子ども会連合会の研修の中の南三陸町ジュニアリーダーチーム「ぶらんこ」によるツアーの一部だ。このツアーに参加した広島県から来ていたジュニアリーダーは広島に帰って、ラジオ出演、報告会の開催などで精力的に南三陸町で学んだことを伝えているという。
 広島には 「原爆ドーム」という原爆の遺構がある。第二次世界大戦後、原爆の傷跡を「伝えていく」という責務を負ってきた「広島」という地に原爆ドームが存在することにはどういう意味があるのか。

 この機会に「伝える」 ことの重要さと重みを私たち一人一人が考えなければいけないのだと改めて思う。
 また、これは町だけの問題にしてはいけないと思う。それを声にするのも私たちの仕事かもしれない。


by 河崎清美

2013年9月21日土曜日

FORTUNE宮城vol.7

 もう9月も下旬になった。
発行して送付等でバタバタしているうちにエコツアーカフェでのトークも終わった。時の経つのは本当に早い!!怖いくらい。
2011.3.11の震災から2年半が過ぎた。FORTUNE宮城の創刊から1年と4ヶ月が経とうとしている。今回のトークで、言いたい事が伝えられたとは決して言えないけれど、自分の中で振り返る機会にはなった。

 編集のノウハウもなければ、関わった経験もない自分が熱意だけで始めた創刊号。震災後に入ったボランティア活動で被災地の中と外をつなぐ立場だった経験から、事実を外に伝えたいと熱意だけで始めた。内と外をつなぐというのは創刊当初から思っていたことだが、少し変わってきたのが3号目からだった。巻頭のページには「ここで興ってくるものは、もしかすると、日本中、いや、世界中を変えることができるものかもしれない。」と書いている。既成のものが壊されたからこそできた隙間。今がチャンスと思っている人は多い。

 今、被災地の状況も常に変化している。震災直後の混沌はある程度整理され、生きていく為にそれぞれがそれぞれの立場で生き方を選び、決断しなければいけない時期にきている。被災地に残る人、故郷を離れ外に生活の場を決める人、新たに被災地に住むことを決意した人、震災で今までの仕事を閉じた人、震災がきっかけで起こした事業が波に乗った人、それぞれの方向へ向かう。地域的にも、それぞれ違った復興の仕方がある。交通の便のよいところと一日に数本しか無いバスを乗り継がなくては行けない場所では復興の速度も違う。地域性もある。
 
 それぞれの道をそれぞれが考えて進まなくてはいけない。

編集長 河崎清美