2015年5月30日土曜日

気仙沼NPO/NGO連絡会ー継続は力なり

気仙沼NPO/NGO連絡会は2011年に始まった。
震災後のまだ緊急支援が必要な時期、全国から集った支援団体がどう動いているのかお互いの行動が見えなかった頃、重複する支援や誤解を解消し、コミニュケーションを深めていこうという目的で始まった。
その頃のことは、FORTUNE宮城vol.4の記事に掲載している。


http://www.fortune-miyagi.com/_src/1330290/p11_p12.pdf

発足当初は気仙沼市外からの団体が多かったこの会も、4年が過ぎた今、地元の団体が主体になっている。市外から移住した方々もいる。
各団体からの報告では、仮設住宅の今の様子、課題、問題への対処状況などを共有し、改善点などが話し合われる。

2015年5月29日(金)の気仙沼NPO?NGO連絡会

5月29日(金)の報告では、今、仮設住宅から災害公営住宅への転入がすすんでおり、新しいコミュニティ形成が必要になっている。それを助けるために「新緑を楽しむ会」と称して、近辺の在宅の方々、新しく災害公営住宅に入られた方々、これから入る予定の方々に声かけし、一緒に災害公営住宅を見学し、お茶会をしてコミュニケーションをとる場作りをしたという報告。健康相談を開催したところ、先の見えない状況に不安が募っている人が多く、不眠の訴えが増えているということ。「とにかく、話したい人が多い」という報告に、別の団体からも別の地域の同じような状況が報告される。心のケアが必要なのだろうけど、「心のケア」と言うと集りが悪いので他の名目の集りにして話しを聞くのがよい、個別で話さないとなかなか話せない、などのアドバイスもでてくる。

市の方からは新たに開設されるこれからのまちづくりのための会議のお知らせと呼びかけ、各種イベントのお知らせ、サポートの募集などもあった。他の団体にも有益な情報もある。

市や社会福祉協議会も参加する連絡会はめずらしく、緊急事態であったからこそ始まったものだろう。今は、被災地特有の問題の情報交換が主になっているが、全国的に少子高齢化が進んでおり、家族構成も以前とは違ってきている今、行政だけが福祉業務を担うのは無理があることは目に見えている。
官民一体になった連携の場が必要になってくるのではないかと思う。

被災地では、「ほんとうに大変なのはこれから」という声をよく聞く。震災直後は支援の勢いもあった、支援金も潤沢に流れて来ていたが、その勢いも時間を経るにつれ衰えている。NPOの継続も容易ではない。震災後の復興の過程で見えて来た問題の根を掘っていくと、ほとんどが震災以前の問題に行きつく。

被災地は日本全体が潜在的に持っている問題の上に、震災のダメージが 覆いかぶさっている。しかし、同時に、変化のチャンスも与えられた。社会を変えるかも知れない沢山の芽が出ている。その芽を育んで、日常に根付かせ、「復興」の後押し無しで自立できてこそ、本当に社会を変えることになるのだろう。厳しい時期にはなるが、希望の持てる社会を目指して歩んでいって欲しい。それは、被災地だけの問題ではなく、日本全体が共有し、目指していかなければいけない指標なのではないだろうか。

気仙沼NPO/NGO連絡会の活動は目立つものではないけれど、2011年から毎週金曜日開催を継続している。各NPOは地域別に地道な密着支援をしているところも多く、地域の信頼も、行政からの信頼も厚い。そして、外からの声かけにも答えられるプラットフォームの役割も果たして来た。地味な活動ほど、日常では大切なことかもしれない。継続するだけでも苦労はあろうかと思うが、今後の展開に期待したい。


by 編集長 河崎清美



2015年5月20日水曜日

女川ー”交流”が町を元気にする



【”交流”が町を元気にする】


2015年5月14日、女川に広島県福山市から7名が訪れた。「日本赤十字奉仕団」2013年から毎年有志を募って女川わを訪れているという。迎えるのは「女川桜守の会」http://sakuramori.minibird.jp/と女川町社会福祉協議会の皆さん。 一行と合流したのは、女川の平野部を見渡せる高台にある女川町地域医療センター(旧女川町立病院)の駐車場だった。
女川診療所の敷地からはかつて女町の中心部だった平野部を見渡せる
工事の様子を眺める女川桜杜の会のメンバーと福山市赤十字奉仕団の皆さん

「もうちょっと(病院が)高い、思よったが……」一年ぶりに訪れた福山市赤十字奉仕団の方からそんな言葉が漏れた。久々に来ると病院が思ったよりも低く感じるという。「かさ上げが進んだからなのかも知れないですね」と桜守の会のメンバーから声が返る。目の前の荒涼とした土ばかりの区画にはトラックばかりが走っている。一年前は、そこに倒れたビルがいくつか残っており、震災遺構として残すかどうかも検討されたが、耐久性、復興事業への影響などから「旧女川交番」を除き撤去された。わずかだが、新しい建物もできている。
同じ風景を見ても、毎日見ている人、たまに見る人、初めてみる人では感じ方も違うだろう。

女川中学卒業生が「千年後の命を守るために」と
募金を集めて建設した「女川いのちの石碑」

続いて、女川中学卒業生がつくった「女川いのちの石碑」の前で手を合わせたあと、新設された女川魚市場と震災後早い段階(2012年)にオープンしたトレーラーハウス宿泊村、エルファロの前をまわって、女川駅隣にできた「女川フューチャーセンターCamass(カマス)」で、交流会が開催された。

トレイラーハウスということを忘れてしまうような爽やかな空間。
敷いたばかりの芝生も一ヶ月後には青々とし、ピクニック気分も楽しめるという。

お互いの団体とメンバーの紹介から始まる。



女川桜守の会の設立の経緯、現在の活動などを丁寧に紹介していただく。
震災前、女川には沢山の桜があったが、多くが津波で流された。その中の一つ、旧第二保育所の園庭跡にあった2本の桜は、上部の2/3を津波に引きちぎられながらも、残った幹に芽を出し、3輪の花をつけた。希望の象徴としてなんとか生きて新たな花を咲かせて欲しいと願う人々の気持ちはつながり、「女川桜守の会」も結成された。手厚く保護された桜は、次々と新芽を出しながらも、たっぷりと塩を吸い込んだ土と夏の熱射の打撃でついには息絶えた。しかし、伐倒された桜から継ぎ芽をした後継樹は育ちつつある。人と人をつなぐ新たな芽も残し、この会も催されている。


赤十字奉仕団の方からは、 昨年、広島県西側の一地区で昨年ひどい土砂災害が起こった時、福山からも応援に駆けつけたお話があった。災害はどこで起こるかわからない。

説明を追加

福山の方々も女川桜守の会のみなさんも、それぞれに別の活動もしている。ひときわにぎやかになったのが、福山で布の絵本をつくって施設に配布している「きしゃぽっぽ」のサンプルを見せていただいたときだ。
おままごとセットのようなおにぎり、サンドイッチ、水筒、弁当箱など、手づくりで見事に再現されているのを見て女性たちは身を乗り出して見入っていた。そのうち女川にも現れるのかも知れない。



説明布でできた制作物を手に取る女川の人たちを追加

2013年から訪れている「福山市赤十字奉仕団」の委員長、過田さんからは、「本当に完成した時に、果たしてどれくらいの人口になっているのか、仕事はあるのか。若い人がどれくらいいるのか」ということが問題だという話しもあった。少子化、高齢化の波は全国に押し寄せている。もちろん、福山にも。人事ではないだろう。


また、「マスコミの報道だけでは伝わらない部分もある。現地で自分の目で見て、聞いてわかることもある」とこれからも継続して女川を訪問する意思を伝えた。

女川最後の訪問地は「きぼうのかね商店街」。まだかさ上げ工事が進むなか、植樹をすることはできないので、この敷地内に若い桜の木が保管してある。新芽がひらき、若い元気な葉が生い茂っていた。


「きぼうのかね商店街」で食事をとった一行は女川を後にし、岩沼へ向かった。「桜守の会」では、毎年100本桜を植え、1000年で10万本という夢ももっている。
福山市赤十字奉仕団の皆さんが来年訪れる頃には、市街地に青々と茂る桜を見ることができるかもしれない。



2015年3月21日に再開した女川駅は、温泉もある複合施設、「yupoppo(ゆぽっぽ)」を併設し、町内外の人々がくつろげる空間になっている。

女川駅/yupoppo


駅の隣にできたCamassは、「町内外の人々が集まり、新しい交流をすることで「新しい仕組み」を生み出し、町の活性化の一助になる場所となることを目的とした施設」(Camassホームページより)として、コワーキングスペースや会議室などもあり、各種イベント、さまざまな課題が議論されるフューチャーセッションも企画されている。近くには水産業体験館「あがいんステーション女川」(6月14日オープン予定)が建設中だ。

女川は、町が一体になって「おもてなし」の体制をつくっているようにもみえる。
震災後に訪れた多くの人も女川が変わる様子を見に来る楽しみもできた。

被災した町が訪れる人に力をもらい、元気になって来た町に今度は訪問者が力をもらう。それがどんどん広がっていけば、みんなが元気になる。それが”交流”というものかもしれない。

by  編集長 河崎清美














2015年5月18日月曜日

防潮堤をめぐって

石巻市渡波地区の防潮堤の建設がだいぶ進んでいるというので、足を運んでみた。
元もとあった堤防を包み込んで防潮堤がのびている。
建設中の防潮堤の背後には松林が広がる。震災前は海水浴場もあったという。




県北沿岸から南下していくと、誰しもがどんどん山が遠くなるのに気付くだろう。

気仙沼や南三陸町と山元町では、風景が全く違う。気仙沼や南三陸町では、海沿いを走る幹線道路を通ると山はすぐそこに見えるところが多いが、山元町まで行くと広大な平野部にいちごハウスが並んでおり、山ははるか向こうに見える。


渡波も山元町程ではないが、山は遠い。「防潮堤より避難道を」と気仙沼の女性達が中心になって声かけを続けている。ここのように平たい土地では、どう避難するのだろうと心配になる。
人に聞いてみると、激しい地震の時には、「高台に避難して下さい」という放送があるそうだ。しかし、どの山で、そこまでどう行けばよいのだろう?そこの住人は知っているのかもしれないが、旅人にはわかりにくい。


通りすがりの人にお話を聞いてみようと思ったけれど、人はほとんどいない。
釣りをしている人を眺めていた男性に話しを聞くと、松林の前は海水浴場になっていたという。そこには堤防も作られておらず、水はそこから入って来たそうだ。牡蠣小屋、ホヤの話しも聞いてお腹が刺激された。牡蠣小屋までもたないと思った時、「カフェらめーる」という看板が目に入った。海は見えないが、海からの風が心地よい。庭にもウッドデッキにも花が植えられ、殺伐とした風景の中に色を添えている。ここの土地、生活を愛しているのだろうと感じる。ホヤか牡蠣を食べるはずが、ナポリタンを注文し、とりあえず落ち着く。オーナーのご夫妻は3.11の3ヶ月前に横浜から移住したばかりで震災にあったそうだ。





震災の3ヶ月前にこちらに移り住んだというマスターにお話をうかがった。

元々あった堤防は5m弱。8mの津波は軽々と堤防を越え、背後の住宅地を襲った。それでも、堤防があったから波が弱まったのだろうという。元建築関係の仕事をしていたマスターは現在建設中の7.5mの防潮堤を盲目的に信じているわけでもない。
草が生えているところは穴が開いて土が出ているところ
このひび割れも震災後できたものか



どれだけ強固につくられていても、ひずみは出る。時と共に劣化もする。今回の津波でも、何十トンという津波の重さで、道路に穴が開いたそうだ。それでも、無いよりはある方がいいだろうという。
 
防潮堤に対しては様々な意見がある。そこに住む人が漁業を営んでいるか、商業地区であるか、住宅地か、観光地、農地、その土地の主幹産業によっても違うだろうし、地形によっても、歴史的な背景でも違ってくるだろう。
前日訪問した女川町は山や高台が多く、平地が少ない。その少ない平地に巨大な防潮堤を作ってしまえば、土地利用も制限される。結果的に、平地には誰も住まないで、防潮堤をつくらない選択をした。

震災後、被災地では多くの話し合いがもたれて来た。あたらしいまちづくり、高台移転、震災遺構、防潮堤などなど。様々な意見があるなか、それを一つにまとめるのはたいへんなことだと思う。皆が同じ方向を向くのは不可能なことのような気がする。お互いが納得するための努力を惜しんでは将来への遺恨を残すことにもなるだろうが、いつまでも話し合いを続けることもできない。被災地は難しい局面が続いている。

しかし、50年後の地域に何が残せるか、を考えて行くと、おのずとある程度は同じ方向に向いていくのではないか、と思う。
試行錯誤の中で生まれる新しいまちが、日本を明るくする力になって行って欲しいと願う。

by 編集長 河崎清美

2015年5月10日日曜日

カルタで見える石巻の風情


 ゴールデンウィーク最終日の56日、石巻グランドホテルでカルタ大会が開催された。
少し遅れてドアを開けると、真剣に向かい合う二人が3組。既に対戦がはじまっていた。
「『ずよう』ってわかる?ずようきょうそう(滋養強壮)の『ずよう』だからね!」読み手の女性が語ると、会場に笑いが起こる。
話されることばは、仙台弁。東北のひとだったらわかるところも多いだろうが、西から来た人間には全て理解することは難しい。





カルタも箱も袋も全部手づくり

このカルタ大会の主催は自由大学「東北復興学」メンバーを中心にした「石巻カルタ制作実行委員会」。発起人は石巻出身、東京在住の浅野郁美さん。
浅野さんの石巻の実家は津波で流され、ご両親は震災後、仙台市に移り住んでいる。
「震災後、どんどん変わって行く石巻を見て自分が取り残されて行くような気がしたんです。」と語る浅野さんは、「石巻の人が知っている石巻を石巻の人と共有したい」と思ってこの企画を考えたという。


発起人の浅野郁美さん(左)とイラストを描いた高橋奈保子さん(右)「人とつながることでここまで来れました。」と語る二人。


「東北復興学」のメンバーを中心に立ち上がった「石巻カルタ制作実行委員会」には心ある仲間がつながり、2年をかけて、カルタが完成した。文言のネタは、郁美さんの友達や知り合いに声をかけたり、石巻出身者を中心に大森(東京)で開催されている「石巻マルシェ」で「あるあるを集める集い」を開催して集めた。カルタは一枚一枚、手づくり。決まり字(最初の文字)は消しゴムはんこでつくり、イラストは友達に紹介され参加した美大出身の高橋奈保子さんが描いた。高橋さんは震災後の石巻しか知らないので、イメージしにくいものも多かったが、何度か石巻を訪れ、地元の人の話を聞いたり、元存在していた場所に自らの足を運んでみることによって、ようやくイメージがつながって来たという。
実行委員会のスタッフは、忙しい仕事の合間を縫っての制作だった。

「上映中『お電話ですよ!』岡田劇場」、「ちりんちりん 市民プールで なぜか大福」。
文言が読まれると、「やってた。やってた」、「そういえば、大福売ってたねー」などと周りで観戦している人々からも声があがる。
「おらいも おだくも あべ、あべ、あべ(阿部、安倍、安部)」、「運動会 空にはためく大漁旗」、「んだ んだからー んだがらっしゃー!」。
町の小ネタは、地域の特色、習慣、独特の言い回しが文言の中に含蓄されている。そこには、気取らない人々の日常のいとなみ/文化が見えてくる。「昭和」という時代を感じさせる要素もある。そして、それは不思議と石巻出身でない者にも、田舎に帰って来たような懐かしさを感じさせるのだ。

手づくりのカルタ。決まり字(最初の文字)は消しゴムはんこで一つ一つ押した。
紙を貼るのも手づくり。


カルタの文言は全て解説つきで壁に貼られている














解説がまとめてある冊子も手づくり











 
石巻と東京、東京と東京、石巻と石巻、人と人をつなげ、多くの思いがつまったこのカルタは、時をも超えて人をつなぐ。ゲームとして楽しめるだけでなく、時空を超えて思いをつなげるツールにもできる。皆でカルタ大会をするのもよし、一つ一つてにとってみるのもよし。

「欲しい」という声もあがっているそうだが、今のところ、増版予定はまだ無いとのこと。一つには、一枚一枚、手づくりでつくっているため手間ひまがかかるということ。そして、資金的な課題も大きい部分を占めるという。

楽しみながら、震災前の石巻の風情を伝えられるこのカルタ、ぜひ、多くの人に知ってしい。いずれにしても、これからの展開が楽しみである。

by 編集長 河崎清美

2015年5月7日木曜日

田んぼに入る


鋤、鍬、スコップで土を掘り起こし、かたまった稲の根を砕く。慣れない手つきで手にマメをつくり、合わない長靴で土に足をとられる。すぐに足腰が痛くなり、座り込みたくなる。いかに普段体を使っていないかがよくわかる。
土手の草の上に座って吹き抜ける風に身をまかせ、あたりのカエルの声を聞きながら、なんだか安心で幸せな気持ちになっている自分。私にとって自然が遠くなっていたのにも気付かされた。





昨年度から南三陸町で、参加者がお米づくりに関わり、その米でできたお酒で交流する「おらほの酒造りプロジェクト」(https://www.facebook.com/orahonosake?fref=photo)がはじまった。今年はさらに休耕田を活用するプロジェクトは広がり、南三陸町内外のいろいろな場所の田んぼでお米をつくって、食べ比べをしようという新企画も始まり、田作り、稲づくりから参加させてもらっている。

4月29日、集った大人6名が汗を流しながら田を起こしていると、通りがかりの人はたいていめずらしそうに眺めていく。大人6人がかりで3時間程使って田起こしをした田んぼは結局、土の塊が大きすぎるということで、最終的にはトラクターに入ってもらうことになった。仕事の効率は非常に悪い。機械が無い時代はどうやっていたのだろうかと思ったら、牛や馬を使っていたそうだ。或は冬も水をはって、土を固めない方法もある。いわゆる「冬水田んぼ」(注1)と言われる農法である。

赤いトラクター




作業効率的には全く無用だと思える手作業による仕事も、参加した一人一人にとっては、お土産になるものもある。田の畦に座ってそよ風に吹かれる経験、共に汗をかく喜び、田んぼや稲の生育への興味、収穫する楽しみも味わえる。
肥料は手撒きで。
肥料はまるい


最近、「農」と「農業」という言葉が使い分けられていることがあるということを知った。
比較的新しい対比の仕方のようである。
言葉の定義はまだ確立されたものでもないようだが、「農」は、作物をつくること自体であり、そこには「生きる」ということも土と触れ合うことの喜びといった哲学的な視点も含まれるようだ、「農業」は、利益を生むことを目的とする産業、という意味あいがあるらしい。なんとなく、わかるようなわからないような……。
ネットで「『農』と『農業』」を調べてみると、頭の方にでてくるのが、「第15回明治大学ホームカミングデー 特別対談(中沢新一X佐倉朗夫)」(注2)の動画だ。対談の内容は、日本の産業としての農業は破綻している。視点を変えて「農」から生まれる産業を考えるべきではないかということ。興味のあるかたは動画をご覧下さい。下にリンクをはりつけています。

なんにしても、ここには、山があり、川があり、海があり、里がある。昔使われていた農機具もけっこう残っている。自然とのふれあいも、農業の歩みを学ぶ機会もある。そして、一番重要なのは、それらをつなぐ人がいるということ。

今、田が起こされ、水入れが始まり、カエルの合唱も聞こえて来ているが、一ヶ月後にはどこもかしこも若い緑で覆われているだろう。カエルだけでなく、どじょうやザリガニ、も出てくるらしい。田んぼの生き物観察会をしたいとの声もあがっている。まだまだプロジェクトは展開しそうだ。


水が入ったとたん、かえるが鳴き始める。アメンボもヒルも泳いでいる。

虫たちをいただこうとウミネコも来る。





注1【冬水田んぼ】
米が生育しない冬でも水を張る米栽培の方法。詳しく説明されているサイトがあったので、リンクする。
「蕪栗沼(かぶくりぬま)ふゆみずたんぼプロジェクト」http://kabukuri-tambo.jp/about-fuyumizu/

注2【第15回明治大学ホームカミングデー 特別対談(中沢新一X佐倉朗夫)】
リンク→ www.youtube.com/watch?v=jdpTksnvAG8



































2015年5月3日日曜日

米の種を撒く


田植えは15cm程にのびた苗を数本まとめて田んぼに定間隔で植えて行く。
この場面からはたいていの人が目にしているとおもうが、その前の行程、苗をつくるところは農家でなければ、なかなか目にしないだろう。

まったくもって当然だけれど、苗をつくるには種を撒き、発芽させる。
機械化された今でも、近所の人と一緒に作業をする。
4月18日、どのくらい広い田んぼ用なのかわからないけれど、その日は薄く、底に穴の開いたトレーに100枚以上種を撒いた。
種は、つまり「米」まだ、籾のついた米だ。それを水につけて少し発芽させたものを撒く。















土を平にしいたトレイを機械にいれると、均等に種を撒いて、軽く土をかぶせて、水を撒いて出てくる。
それをビニールハウスに並べて、シートをかけて保温して発芽させる。

これが機械

種と上からかぶせる土を入れる


土を平にひいたトレイを入れると

種がまかれ

土がかぶさって出てくる


そこに保温シートをかけて発芽させる

この時期は温度の管理が一番重要らしい。高すぎると稲になっても生育しないし、低すぎると芽がでないそうだ。夜は冷えるし、昼間は温度が上がりすぎる危険があるそうだ。
数日経つと土から出てくる(見えるかな?)

ある程度のびたら、シートをはずして葉をのばしてやる。


5日目ではまだ赤ちゃんのように弱っちい





5日目
そして18日目(5月6日)
さすがに色も厚みも力強くなってきた

こちらが着実に成長している間に、田の準備にとりかかる。


by 編集長 河崎