2015年5月18日月曜日

防潮堤をめぐって

石巻市渡波地区の防潮堤の建設がだいぶ進んでいるというので、足を運んでみた。
元もとあった堤防を包み込んで防潮堤がのびている。
建設中の防潮堤の背後には松林が広がる。震災前は海水浴場もあったという。




県北沿岸から南下していくと、誰しもがどんどん山が遠くなるのに気付くだろう。

気仙沼や南三陸町と山元町では、風景が全く違う。気仙沼や南三陸町では、海沿いを走る幹線道路を通ると山はすぐそこに見えるところが多いが、山元町まで行くと広大な平野部にいちごハウスが並んでおり、山ははるか向こうに見える。


渡波も山元町程ではないが、山は遠い。「防潮堤より避難道を」と気仙沼の女性達が中心になって声かけを続けている。ここのように平たい土地では、どう避難するのだろうと心配になる。
人に聞いてみると、激しい地震の時には、「高台に避難して下さい」という放送があるそうだ。しかし、どの山で、そこまでどう行けばよいのだろう?そこの住人は知っているのかもしれないが、旅人にはわかりにくい。


通りすがりの人にお話を聞いてみようと思ったけれど、人はほとんどいない。
釣りをしている人を眺めていた男性に話しを聞くと、松林の前は海水浴場になっていたという。そこには堤防も作られておらず、水はそこから入って来たそうだ。牡蠣小屋、ホヤの話しも聞いてお腹が刺激された。牡蠣小屋までもたないと思った時、「カフェらめーる」という看板が目に入った。海は見えないが、海からの風が心地よい。庭にもウッドデッキにも花が植えられ、殺伐とした風景の中に色を添えている。ここの土地、生活を愛しているのだろうと感じる。ホヤか牡蠣を食べるはずが、ナポリタンを注文し、とりあえず落ち着く。オーナーのご夫妻は3.11の3ヶ月前に横浜から移住したばかりで震災にあったそうだ。





震災の3ヶ月前にこちらに移り住んだというマスターにお話をうかがった。

元々あった堤防は5m弱。8mの津波は軽々と堤防を越え、背後の住宅地を襲った。それでも、堤防があったから波が弱まったのだろうという。元建築関係の仕事をしていたマスターは現在建設中の7.5mの防潮堤を盲目的に信じているわけでもない。
草が生えているところは穴が開いて土が出ているところ
このひび割れも震災後できたものか



どれだけ強固につくられていても、ひずみは出る。時と共に劣化もする。今回の津波でも、何十トンという津波の重さで、道路に穴が開いたそうだ。それでも、無いよりはある方がいいだろうという。
 
防潮堤に対しては様々な意見がある。そこに住む人が漁業を営んでいるか、商業地区であるか、住宅地か、観光地、農地、その土地の主幹産業によっても違うだろうし、地形によっても、歴史的な背景でも違ってくるだろう。
前日訪問した女川町は山や高台が多く、平地が少ない。その少ない平地に巨大な防潮堤を作ってしまえば、土地利用も制限される。結果的に、平地には誰も住まないで、防潮堤をつくらない選択をした。

震災後、被災地では多くの話し合いがもたれて来た。あたらしいまちづくり、高台移転、震災遺構、防潮堤などなど。様々な意見があるなか、それを一つにまとめるのはたいへんなことだと思う。皆が同じ方向を向くのは不可能なことのような気がする。お互いが納得するための努力を惜しんでは将来への遺恨を残すことにもなるだろうが、いつまでも話し合いを続けることもできない。被災地は難しい局面が続いている。

しかし、50年後の地域に何が残せるか、を考えて行くと、おのずとある程度は同じ方向に向いていくのではないか、と思う。
試行錯誤の中で生まれる新しいまちが、日本を明るくする力になって行って欲しいと願う。

by 編集長 河崎清美

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