空は真っ青に晴れた1月7日朝、福岡県立修猷館高等学校(以下、修猷館(しゅうゆうかん))の生徒さんたちが南三陸町を訪れた。
修猷館では、2012年から東北被災地への研修旅行を開始している。
今回は3泊4日の行程で2グループに別れ、生徒主導で行き先を決める。この日、南三陸町へ来ていた生徒は20数名、あとは仙台一高の生徒さん達との意見交換会に参加する予定ということだった。
午前中は南三陸町の高校生語り部グループ「まずもって」の代表である田畑祐梨さんに志津川の町を案内してもらった。スタートは志津川中学校。津波がきた時に祐梨さんたちが避難した場所であり、その後も仮設に入るまで何ヶ月かを過ごした場所である。
今は、戸倉中学校※と校舎を共有している。
※戸倉は南三陸町内でも石巻寄りの浜に面した地域。戸倉中学校も高台にあったが、1階まで津波は到達した。
真ん中が田畑祐梨さん |
三陸沿岸はどこもだが、幼稚園、保育所、学校はたいてい高台にある。志津川中学校もそうだ。多くの津波を経験した土地だからこそだが、今回の津波はその予測も超えていた。
志津川中学校前からは広く志津川の町(今は、町といえるかわからないが……)が展望できる。下は今の風景と、以前の写真だ。
志津川町2013年1月7日 |
志津川中学校がある高台にかけてある震災以前の志津川の写真 |
祐梨さんは、修猷館の生徒さん達に、津波がきた時の状況を淡々と語った。
体育館に避難した話し。泣き叫ぶ友達をなだめていた自分だったのに、「津波だ!」という声に自らもパニックになり、泣き叫んでいた。「大丈夫」という友達の手を振り払い泣き続けていたが、ふと気付くとその友達も泣いていた。
避難所の生活も大変だった。トイレも不便、水も充分使えない避難生活。支援物資の仕分けを手伝っていた頃は、自分たちが世界中の人に支援を受けているということを知った。電話が通じた時には、嬉しい便りもあったけど、悲しい知らせも沢山あった。
一番悲しかったのは仲の良かった友達が町を出ていくと知った時。
物も、人も、あたりまえの存在だったものの、大切さをしった。
「はずかしいかも知れないけど、大好きな人に、”好きです”、”ありがとう”と伝えてください。今伝えておかないと明日はもしかしたら言えないかもしれない。」と祐梨さんはしめくくった。
その後、高台から階段を降り志津川の(元)町を歩く。
あちらこちらに土が盛り上げられている。 |
庭石の撤去勧告だ。そばには大きな石が。 |
周りが全て見渡せる。何がなんだったのかわからないが、 以前は家があり、店があり、田んぼや畑もあったのだろう。 |
祐梨さんが立っているところは以前、祐梨さんの家があったところ。 祐梨さんは今内陸の仮設に住む。新しい家がいつ建つのかは未定。 |
そっと花を添えてある敷地。 |
広くない道路をトラックが何台も通り過ぎる。 |
多くの町の職員が命をおとした防災対策庁舎 |
皆で手を合わせる。 |
ここはいつも花が絶えない。外から来る人も多いが、 地元の人は複雑な思いを抱えながら訪問しているのかもしれない。 |
元町中を一周する間に口も軽くなってきた。 談笑しながら、このツアーの最終目的地、南三陸ポータルセンターへ。 |
修猷館の生徒さんから、祐梨さんにお礼の品が渡される。 |
ツアーの後は、南三陸町危機管理課の佐藤さんより震災の時のお話をうかがう。 |
2012年、まだ震災から1年が経っていない時期から修猷館は東北被災地への研修旅行を開始した。その時には、果たしてこの時期に行っていいものなのか、放射能は大丈夫なのか、混乱の中、東北研修旅行は開始された。しかし、その旅行で生徒達は何かをつかんでいた。元々、生徒自主の気風が強い学校だという修猷館では、生徒が訪問先を探し選ぶ。今回、南三陸町の訪問は初めてだというが、大人に話しを聞くよりも、同年代の目線の話しを聞きたいと、生徒が探してきたものだという。
生徒さんに直接話しを聞きたがったが、残念ながら皆が話しを聞いている間に、その場を後しなければいけなかった。
しかし、外部との交流の中で、それがどのような効果を生んでいくのか、被災地の教育の場としての可能性と共に今後の展開に期待したい。
by 河崎
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